僕は特別な人間でもないし、他人が羨む波瀾万丈な人生を送ってきた訳でもありません。出来れば、聞くも涙、語るも涙の不幸話や、周りの人が抱腹絶倒するような人生を歩んで見たかったとも思うことはある。でも、僕の人生が、つまらないかと問われれば、「楽しんでいるよ」と胸を張って答える。ぶっちゃけた話、楽しいことばかりじゃないけど、楽しんでいる。論理的に言語化するのは難しいんだけど、僕は必死に楽しんで生きている。
よく考えてみると、「楽しい」という感覚は意外と主観的なものです。同じ状況でも、ある人は「退屈だー」と感じることでも、別の人は破茶滅茶に楽しいと感じていたりする。例えば、バイクや自動車を磨くことは、僕にとっては楽しみだけど、「寒い(暑い)のにせいが出るね」と声をかけてくる人がいる。そんな人にとって洗車は苦痛でしかないのかも知れない。そう考えると、その瞬間をどう受け止めるかは、完全に個人の心持ち次第なんだと思う。
僕は、比較的、日常の些細な出来事でも、どうせやるなら少しでも楽しもうと考える。コーヒーを淹れる時間も、多くの人が退屈を持て余し、スマホに目を向ける通勤時間も、職場での何気ない会話も、全てを楽しみたいんです。僕は、仕事が好きではない。だけど、どうせやるなら楽しもうと思っている。もちろん、誰もが僕のように能天気に楽しめないのかも知れません。でも、それこそが人生の趣というか、風情というか、なんとも言えない味わいみたいなものなんじゃないかな。
世の中には、羨ましいくらい華々しい成功を収める人もいるし、劇的な人生の転換点を迎える人もいます。多くの人の関心は、常にそういった特別な人生だと思う。でも、普通の人間が、そこまでドラマチックな人生を送れるわけもなく、平凡な日々の繰り返しの中で、自分なりの幸せを見つけているんだと思う。少なくとも、僕はそうだ。
「楽しむ」という行為には、ある種の積極性が必要です。いくら期待して待っていても、楽しいことは向こうからやって来ません。だから、自分から楽しみを見つけようとすることが重要なんです。例えば、退屈な会議でも、参加者の表情や言葉の選び方を観察することで、人間観察の場として楽しむことができるし、面倒な作業も、効率化の方法を考えることでゲーム感覚で取り組めば楽しくなるんです。
たまには、周囲の空気に流されそうになり、「楽しんでいて問題ないかな」とか「もっと真面目に取り組むべきではないか」という声が、心の中で囁きになる。でも、そんな時こそ、自分の感覚を大切にする。つまり、他人の価値観に振り回されることなく、勇気を持って楽しんじゃおうと開き直る。
人生って、そんなに楽しいことばかりじゃなんです。生きていれば、ツラいことや悲しいこともあるし、日常茶飯事的に、理不尽なことも訪れるんです。でも、楽しんだもん勝ちだと思えば、楽しめるんじゃないかな。もしかしたら、それは現実逃避だと思われるかも知れません。でも、僕は、現実と向き合いながら、なお前を向いて歩み続けるための、大切な心の持ちようだと思っている。
もちろん、誰もが同じように楽しめるわけではないとは思う。みんな性格は違うし、価値観も違う。でも、自分なりに楽しもうと思えば、何をしていても楽しめるんじゃないかな。その人らしい「楽しみ」があることが、充実した人生を送るための鍵となるような気がします。
僕の好きな偉人のひとり、高杉晋作は「おもしろきこともなき世を おもしろく」と辞世の句を読んだと言われている。まさにその通りだと僕は思う。誰かに流されたり、多数派の意見を妄信したり、他人の目を気にして悶々とするより、どうすれば楽しめるかを考えて行動する方が健全でしょ?
結局のところ、人生は自分で選択し、責任を取るのも自分です。だからこそ、自分なりの「楽しみ方」を見つけ、それを大切にした方が幸せです。それは、決して大げさなことではなく、日々の小さな発見や喜びを、しっかりと感じる。そして、どうにか楽しめないかと考え、勇気を持って実践していく。それこそが、僕にとっての「人生を楽しむ」ということなのである。
(了)
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