人は古来より、技術という刃物を手にしてきた。その刃は、時に人々の暮らしを豊かにし、時に深い傷を社会に与えてきた。その違いは何か。それは、その刃物を扱う者の「センス」なのである。ここでいうセンスとは、純粋な想像力のことである。
明治の先人たちが、西洋の技術文明と対峙したとき、彼らは深い洞察と想像力をもってそれらを受容した。福沢諭吉をはじめとする開明的な知識人たちは、新しい技術が単なる物質的な利器ではなく、その背後にある思想や哲学をも含めて理解しようと努めた。それは技術と想像力の見事な調和であった。
しかし、現代の情報技術の発展は、かつての産業革命をも凌駕する速度で僕たちの生活を変えつつある。この変化の波は、一部の好奇心旺盛な人々にとっては興味の対象となっているが、その本質は、人類の生活様式を根本から変える力を持っているのである。
僕は京都の古い町家で、ある老技術者から興味深い話を聞いたことがある。その人は戦後の日本の電機産業を支えた技術者の一人であった。「技術というものはな、使う人の心がけ次第で神にも悪魔にもなる。それを見極める目を持たん者に、新しい技術を扱う資格はない」。茶碗を手に、静かにそう語った言葉が今も耳に残っている。
現代において、かつての「暗黙知」として伝えられてきた技術利用の作法は、法という形で明文化されつつある。しかし、その法の精神を理解している者は、残念ながら情報社会の最前線に立つ者たちだけである。多くの者は、断片的な知識だけを頼りに、この新しい力を扱おうとしている。それはあたかも、鋭利な日本刀を、素人が粗末に扱うようなものである。
大阪の古い商家に伝わる家訓に「新しきを知らざれば商い成らず、古きを忘れれば人に非ず」という言葉がある。この言葉は、現代の技術社会にも通じる深い洞察を含んでいる。新しい技術を受け入れることは必要だが、それは人としての基本的な理解と教養の上に成り立つものでなければならない。
技術の利便性が増せば増すほど、その誤用がもたらす禍害も大きくなる。これは刀剣の歴史が教えることでもある。名刀であればあるほど、使い手の心得が問われたのである。現代の情報技術も、かつての名刀に劣らぬ力を持っている。その力を正しく使いこなすためには、相応の知識と心得が必要なのである。
古代文明の興亡を研究していると、興味深い共通点に気付く。多くの文明は、その技術的達成が頂点に達したときに、突如として崩壊している。バビロニアしかり、マヤ文明しかり。彼らは優れた技術を持っていたが、それを制御するための知恵を失っていたのではないか。これは僕の仮説に過ぎないが、現代を生きる我々への警鐘として受け止める必要があるだろう。
明治の志士たちが、西洋文明という巨大な波に対して示した謙虚さと探究心。それは今なお、我々が学ぶべき姿勢である。技術という力を正しく使いこなすために必要なのは、知識と想像力、そして何より、その力が持つ両義性への深い理解なのである。
技術の刃は、使い手の心によって、創造の剣にも破壊の剣にもなる。この古くて新しい真理を、我々は今一度かみしめる必要があるのではないだろうか。
(了)
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