智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角とかくに人の世は住みにくい。
これは、夏目漱石の『草枕』の書き出しである。僕なりの解釈では『他人より秀でた能力を見せれば、他人から嫉妬されるから面倒くさい。他人の感情に気づいちゃうと色々と考えないといけないから面倒くさい。かといって、自分の意地や価値観を他人に押し付けるのも面倒くさい。あ〜、本当に、面倒なことばかりで現代社会は生き難いわぁ〜』ということである。
僕が思うに、夏目漱石は、知っての通り頭脳明晰だったし、他人の感情が分かってしまう繊細な人間だったんだと思う。そして、そんな人間にとって現代は、もっと生きにくい社会なんじゃないかな。
少し考えてみて欲しい。情報過多の社会では、頭脳明晰であればあるほど、様々な矛盾や不条理に気づいてしまう。例えば、SNSで「幸せそうな自分」を演出している人間をみると、その裏にある虚しさや孤独も見えてしまう。会社では、能力主義を謳いながら、実際には、感情的な同調圧力が支配している。なんと言うか、見なくても良いこと、感じなくても良いこと・・・クソみたいな社会の二重基準や矛盾、二枚舌な部分を、鋭敏な感性を持つ者は見逃すことができない。もちろん、正論や正義が通じないのは理解をしているんだけど、なんとなく悶々とすると言うか、本当にそれで良いのかという葛藤が沸々と溢れてくる。
他にも、僕が子どもの頃は、空気は読むものではなく、吸うものだったのに、いつの間にか、社会では「空気を読め」という暗黙の要求が、当たり前になっている。でも、他人の感情が手に取るように分かる繊細な人間は、相手の感情を深く理解しちゃうから、相手を傷つけるか、自分が犠牲になるかを考え、行動が制限されてしまう。相手の気持ちが分かりすぎるからこそ、自分の本心を抑え、相手を立ててしまう。
単純に目の前で起きている事象だけを見て、あと先を考えずに、その場凌ぎで誤魔化し、問題を先延ばしすることができれば、ラクに生きれる。
例えば、世渡りの良い人間のように、上司の顔色を窺い、「いい感じ」「大丈夫です」みたいな曖昧な言葉で、責任を上司に擦り付ければ良いし、何なら自分のミスも他人のせいにして、知らん顔できればラクになれる。自分の身を守り、幼稚で刹那な行動をすることに専念すれば良いのである。
分かっていても、できないから困る。
薄っぺらな共感で自己満足に浸ることができれば・・・。深く考えることを放棄し、他人の意見の受け売りで自分の意見として責任逃れができれば・・・。思考停止状態で「みんなと同じ」という安全地帯に逃げ込むことができれば・・・。そんな生き方ができれば、何も苦労はしない。自分を誤魔化すことができず、周りに合わせることが出来ないから「生きにくい」と感じるんだと思う。
でも、僕はそれで良いと思っている。何も考えず、逃げ回ってばかりの人生が楽しいとは思えない。自分の本心を隠し、表面的な付き合いに終始するのは、凄く滑稽だと思う。少なくとも僕は、本質を見抜き、自分の好きなように生きることが楽しみだ。
結局のところ、「住みにくい」世界で生きるためには、思考を放棄した大衆と同じになる必要はなく、自分の意見に自信を持ち、信念として信じることだと思う。誰からも認められなくても、自分の信念を大切にする強い意志だと思う。結局のところ、個性と言うのは、その人が持つ価値観と言うか、信念と言うか、これだけは譲れないという人生を賭けることのできるモノがあるかどうかだと僕は思う。そして、僕はそんなあなたと仲良くなりたい。
最後に、僕は僕が賢い人間だとは思わない。ただ、自分の価値観を曲げてまで、社会の一員にはなりたくないし、生きにくい世の中でも、必死に自分を貫き通していこうと思っている。別に、僕の価値観を押し付けるつもりもないし、否定されても構わない。だけど、僕と同じように悩んでいる人がいるなら、手を差し伸べたいと思っている。そして、おこがましいが、夏目漱石の『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。』に共感をした。夏目漱石と語り明かしたいと思った。
(了)
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