人間は往々にして群れを成す生き物である。その群れの中で、自分の身の安全を確保するために、多数の意見に従う。それは太古より変わらぬ生存の術なのかも知れない。
でも、現代という時代において、その習性は時として禍根を残す。いわゆるブラック企業の存続、いじめの蔓延、差別の黙認・・・これらはすべて、「多数派の意見」という名の虚像に人々が従っているのが原因の歪みである。人間は自らの良心を抑え込んでまで、その虚像に従おうとする。それはあたかも、暗闇の中で互いの影を追いかけるような、虚しい行動である。
組織というものは、本来、人々の力を結集して、より大きな価値を生み出すための仕組みであったはずだ。個々人の能力には限界がある。だから人は集い、互いの長所を活かし、短所を補い合いながら、より大きな目標に向かって進むべきものである。しかし、その仕組みが歪むとき、そこには独特の病理が生まれる。
経営者という頂点に立つ者の独善的な判断と、その庇護を求めて自らの判断を放棄する者たちとの間に、奇妙な共生関係が成立する。それは主従の関係に似て非なるものだ。なぜなら、真の主従関係には双方の信義が存在するが、この関係には単なる打算があるのみだからである。
会社という場において、人は往々にして「自分は会社の指示に従っただけだ」という言葉の後ろに隠れる。それは自由という重荷から逃れるための方便に他ならない。自由には必ず責任が伴う。その責任を放棄することで得られる安寧は、しかし、人としての尊厳を失うことと等価なのである。
多くの人は組織の中で自分の良心を封印する。それは生活の安定を得るための取引のようなものだ。しかし、その取引によって失われるものは、実は計り知れないほど大きい。なぜなら、それは単に個人の良心を失うだけでなく、組織全体の健全性をも蝕んでいくからである。
組織の中で、正しい判断をする人間は大抵の場合、疎まれる。彼らは「空気が読めない」と後ろ指を指され、組織から排除される。その結果、組織はますます歪んだ価値観の中で、自浄作用を失っていく。それはあたかも、淀んだ池の水が腐敗していくかのようである。新鮮な水の流入を拒めば、池は必ず濁る。それと同じように、新しい価値観や健全な批判を拒む組織は、必ず腐敗への道を辿るのである。
このような状況は、なにも企業組織に限ったことではない。政党であれ、宗教団体であれ、ボランティア組織であれ、人が集まり、権力構造が生まれる場所では、必ずと言っていいほど同様の現象が見られる。それは人の群れが必然的に生み出す病理なのかもしれない。
では、この淀みを清めるにはどうすればよいのか。それは決して容易な課題ではない。なぜなら、それは人の本質的な弱さと向き合うことを意味するからである。
それは、一人一人が自らの良心に従い、判断する勇気を持つことに始まる。多数派の意見に安易に同調せず、自らの価値観を持ち、それを表明する。そして、それが時として孤立を意味することを知りながらも、なお正しいと信じる道を歩む。それは孤独な戦いかもしれない。しかし、その戦いなくして、組織の健全性は保てないのである。
組織の中で、このような個人が増えていくことこそが、組織を健全な方向へと導く力となる。それは決して容易な道のりではない。むしろ、茨の道と言ってもよい。しかし、それこそが人としての尊厳を守る唯一の道なのである。
教育もまた然り。暗記と同調を良しとする現在の教育は、むしろ問題を助長している。必要なのは、自ら考え、判断し、責任を持って行動できる人間を育てることである。それは単なる知識の伝達ではなく、人としての在り方を問い直す行動でなければならない。
組織の改革もまた、避けては通れない道である。意思決定の過程を透明にし、健全な批判を受け入れる文化を育てる。それは時として痛みを伴う。しかし、その痛みを避けることは、より大きな破綻への道を選ぶことに他ならない。
そして何より重要なのは、個々人が「自分には関係ない」という思考から脱却することだ。社会の歪みは、結局のところ、私たち一人一人の小さな逃避の集積に他ならない。その意味で、私たちは皆、現状に対する責任の一端を担っているのである。
変革は、個人の意識から始まる。それは静かな、しかし確かな流れとなって、やがて組織を、社会を変えていく。それは遠い道のりかもしれない。しかし、その一歩を踏み出さない限り、何も変わることはないのである。
個々人の判断と行動が、やがて大きな流れとなる。それは、細流が集まって大河となるがごとくである。一人一人の小さな勇気が、やがて社会を変える力となる。それを信じ、行動することこそが、現代を生きる私たちに課せられた責務なのではないだろうか。
個人の尊厳と責任。この二つを胸に刻み、私たちは歩を進めねばならない。それは時として孤独な道かもしれない。しかし、その道を歩む者が増えていけば、必ずや社会は変わっていく。それを信じて、今日も一歩を踏み出すのである。
それこそが、より良い社会を築くための礎となるのである。そして、その礎の上に立つ社会こそが、真の意味での文明社会と呼ぶにふさわしいものとなるのではないでしょうか。
(了)
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