恒例の年末大掃除に意味はあるのか

コラム

僕は今年も例のごとく、年末の大掃除というならわしに直面している。

思えば、年末の大掃除という風習は誠に不可思議なものである。人の世には忘年会や初詣はつもうでといった、心を浮き立たせる年末の行事が数多あまたあるのに、何故にこのようなを、普段は落ち着いている坊主が走る年の瀬に行うのか・・・。そうじゃなくても、手がかじかむほどの凍てつく冷気の中、暖かい部屋を開放して大掃除なる苦行を行わなければならないのか、はなはだ疑問である。

とは言っても、年末の大掃除というものは避けることのできない宿命さだめである。僕は今朝、書斎の片隅に積み重なる書物の山を前にして、深いため息をつきながら、この一年のほころを払おうと重い腰を上げた。

が、その瞬間、思いもよらぬ出来事が次々と起こり始めた。

先ずは、引き出しの中より、十年前の手紙が出てきた。それは学生時代の友人からの年賀状で、僕は思わずその文面に目を通し始めた。さらには、読みかけの文庫本や探していた小物など、ここぞとばかりに出てくるのだ。

そんなことをしているうちに時計の針は容赦ようしゃなく進み、気がつけば小一時間が経過していた。かくして、整理しようとして散らかした書類は、床の上に無秩序に広がり、まるで台風の後の如き惨状をていしていたのである。

我が家においては、この大掃除という行事に対する家族の態度が、実に興味深い対照を成している。家内は朝より張り切って、まるでの如く指示を出す。「今日こそは」という決意に満ちた眼差しで、雑巾ぞうきんを握りしめ、張り切っている。一方、僕はスマホを手に取りながら、何とかの場を切り抜けられないかと思案するばかりだ。

「そこは動かさない方が良いと思うよ」などと、実に都合の良い理屈をつけては、自分の居場所を守ろうとする。家内の目が厳しくなるのを感じつつも、気づかないをしながら、どうにか逃げられないかと外に出る用事を探す。これこそが、現代に生きる男子の智恵である。

掃除の最中に出てくるの中には、得体の知れぬコードや部品がある。電気器具の配線であろうか、あるいは家具の部品であろうか。家族揃って首を傾げ、その正体を推理するさまは、まるで探偵小説の一場面の如くである。結局は何の部品なのか、必要なのか判断がつかず、「念のため」という言葉と共に、再び箱の奥へと封印されることになる。

そして、我が家には年に一度の大掃除の時だけ、その姿を表す掃除道具がある。普段は、押入れや物置の奥に仕舞い込んでいる高温スチーム洗浄機や電動スクラバーなど、近代文明の利器が並ぶ。でも、その取り扱いに四苦八苦するさまは、まるで異文化との格闘を見るようである。結局は、先祖伝来伝わる雑巾ぞうきんとバケツに立ち返る。これぞ日本人の伝統的な掃除である。

かくして一日が過ぎ、夕暮れが迫る頃になって、ようやく掃除は終わりを告げる。埃を払い終えた部屋は、確かに清々しい空気に満ちている。だが同時に、この清浄なる状態が長くは続かぬことを、僕は痛いほど承知している。つまり、来年もまた、同じ光景が繰り返されるのだ。

人は何故に、毎年この儀式めいた労働を繰り返すのか。あるいは、これこそが人生の真理なのかも知れない。乱れては整え、整えては乱れる。その繰り返しの中に、我々の生活の本質が隠されているのである。

夜も更けて、僕は机に向かいながら、こんな思索にふけっている。窓の外では、年の瀬の冷たい風が吹き抜けていく。来年こそは毎月きちんと掃除をしようと、例年の如く心に誓うのであった。だけど、この誓いもまた、来年の大掃除まで忘れ去られることを、僕は薄々感じているのである。

(了)

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